UNDMESS.LIFE

オカルトを追い求めて旅する23歳の手記

もう少しの辛抱だと良いですが

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「駅を降りてすぐの姨捨棚田」 Photo by Yoshito Takahashi

 

いつかの卓球さんが書いた「学校ないし家庭もないしヒマじゃないしカーテンもないし花を入れる花ビンもないし嫌じゃないしカッコつかないし」といったところで、フワフワした時間が過ぎていきます。

面接に行く電車のなかでふと窓の景色をボーッと眺めていました。僕は果たして何者になるのだろうかと、ゆっくり流れる雲を見つめながら思いを馳せていました。

そんな時は決まって「何者になろうとしなくてもいいじゃないか」と、結局のところは曖昧な結論で次の駅のアナウンスに目を向けるのです。

もう周りからどう思われるか、どう見られるか、そんなことに対していちいち考え込むのはやめようと思います。人にいつ、どう思われたっていいけど、自分だけは見失わないようにいようと。

かっこ良く見られたいとか、可愛く見られたいとか、自分に期待するようなことを思わな過ぎずにいこうとそんな感じです。結局いまの僕には何もできないので。20代はとにかく何かに熱中して、無駄なことだけしていこうと思います。

 

参照:

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先日「白線流し」シリーズを初めて観て、特にスペシャルでは丁度今の僕と同世代になった彼らが、受験やら上京やら夢やらと嘆いていた高校時代から、少しずつ変わっていく姿にこれから上京しようかと考えている自分と重ねてしまいました。希望、切なさ、現実が一気に僕の中で駆け巡り、何とも言えない気持ちになりました。劇中の彼らを見ていると、等身大のままで生きていこうとそう思うんです。

言葉にするのが難しいですが、色々と受け入れる器を頑張って大きくしていきながら、現状を把握する能力を身につけていきたいです。

もっと壮大なことを話すと、今のイマの僕が思う人生って面白かったり悲しかったり楽しかったり、その時々に感じたことが忘れられないから辞められないもので、その等身大で感じたっぽいモノの積み重ねで気がついたら50年もの月日が流れていくものだと、どこかで思っています。

凄い極端なことをもっと言うと、50年後の世界が見たいから生きているようなものです。AIロボ専門の古着屋なんてものが出来ているかもしれないし、月面でオリンピックが開催されるかもしれないし、はたまた本当に氷河期が訪れて晩年はシェルターの中なんてこともあるだろうし、ありきたりの言葉ですが先のことなんて何も分からないです。

だから、見てみたいと思いますし面白く感じるのではないのかということです。その点を踏まえると、先々の夢や目標なんてそんなに当てにならないような気がしています

白線流しのあるシーンで「夢を叶えた先は日常」という言葉が強烈に印象深いです。夢なんてそもそも持ったことがそんなにないですし、端から夢や目標などに期待していません。日常をもっと大切にしていきたい、そんな感じです。

 

それでも、いざ面接なんかを受けてみると、日常の自分のままで受け答えるとマズいなと思い知ります。思わず本音を言いたくなるし実際に言ってしまうことが多いので、「この先どうなりたいの?」とありきたりなことを聞かれて、適当にありきたりなことを言っておけば良いのに、「先のことはあまり考えていないです。20代は目の前のことを積み重ねていくことだけ考えていたいです。」や「何十年後かには写真なりWEBなり物書きなりオカルトなり、英語で言うとmessみたいな。乱雑したよく分からない人間になりたいです。何かを目指そうとすると結局、僕みたいな凡人は大手や古株に淘汰されてしまうので。」と捻くれた回答をしてしまうこともありました。振り返ると、まだまだ子供だなと恥ずかしくなります。

ただ、面接中は割と本音をダラダラと喋っているので、終わった直後はあれもこれもミスったなというよりも自分のことは程々に出せたかなとスッキリした気持ちになっています。本音なので反省しようにも出来ないし、自己満足に浸っていたりもします。 

 

「気長く心穏やかにしてこの世に客に来たと思えば何の苦もなし」

かの伊達政宗公が残した言葉で、僕が好きな武将でもあります。もしかすると、面接に限らず何事もこれをわきまえていれば幾分気が楽になるかなと最近思っています。

テレビタレントの先駆者でもある黒柳徹子さんは、1960年の7月から10月まで東京新聞で「6音6画」というエッセイを執筆されいました。とある回、政治家の不謹慎な行動によって起こった出来事の中で、人の目にふれる人の心得として「この世に客に来たと思え」というものがあると述べていらっしゃいます。

どこかに訪れたり、時にはお金を支払って宿泊したりすることも、現代人としては多いのではないかと思います。その中で、金を払ってるんだから良いサービスをしてくれて当然のような考えを持っている方もいるかと思いますが、僕はお金に困っている中でも支払う場面や、お金を支払ってとてつもなく悪いサービスを受けたという場面だろうと、客は神様ではないので横柄な態度を取るつもりはありません。

 

それよりも僕は何事も「次も次も」と思う性分ですので、この一回きりというのが勿体無いような気がしてしまいます。僕は次もここに来るんだ、次も何かを買うかもしれないんだと思うので、そんな相手に対してあまりにも失礼な態度を取るわけにはいかないといった感じです。僕は根本的に勉強代としてお金を使っているんだと思ってるのかもしれません。

 

先日、何ヶ月かぶりに買い物をしようと電車に乗って少し遠くに出かけました。到着した場所では小さな小さなフリーマーケットが催されて、陶器が有名な街だからかモノを作った製作者が直接手売りするスタイルです。僕はこの手の商売に滅法弱いんですね。

問屋や仲介業者から購入するよりも、作り手に色々な話を聞いてから買うか決めることが好きなんです。次いつ買うか分からないし、もうこの人には出会わない確率の方がすこぶる高いけど、この人が作った素敵なモノを僕みたいにまた誰かが見つけて買うことができるように、滅茶苦茶余計なお世話ですがほんの少しでも貢献できればいいと思います

これは先程のことにも通ずるものがありますが、要するに僕も提供者も今為されているモノを踏まえて次に繋がるために僕は今お金を支払っているんだということです。これは多分大学時代のアルバイト経験や身内の商売を側からみて感じてきたことがきっかけです。

 

「店員さんに対する態度は一年後の恋人に対する態度」とはよく言ったもので、僕は幸いにも店員さんに横柄な態度を取る方と親しい関係になることは殆ど無かったですが、やはりクレーマーとはいるもので自分がお店にお客さんとしていた時やバイトしている時に明らかにお店側は全くの無関係なのにクレームを入れてくる客はいるものです。

普通にしていれば普通にその場を楽しめるのに、何でいちいち難癖を見つけようとするのか不思議に思います。きっとそれは特別な感情のない人間に対する態度もそんなものだと、いつかの記事に書いてありました。八方美人である必要は全くないですが、その場を楽しんだりとか思っているのであれば意識せずとも楽しめるものだと思っています。

 

「この世に客に来た」という言葉通り、失礼な行動は極力控えて身の程をわきまえて行動することが最近の面接や90年ドラマをザッピングしている日々から大切だと思うようになりました。