2020.09.01 -ESSAY

それでも雨を嫌いになれない

朝から雨が降るとメランコリーな気分になるが、静かな早朝に聞こえてくる心地よい雨音だけはどうも嫌いになれない。

最寄りの駅まで傘をさして行ったり滑らないように階段を降りたり、はたまたその日の予定そのものが無くなったりと、これまでの人生で雨というものだけは日々迷惑をかけられてきた気がする。

憂鬱な気持ちにさせられて腹立たしかったこともあった。「よりによって何で今日降るかな。」なんて思った日は無数にあるような気がして、それと同時に記憶には一切残らないほど日常でのワンシーン程度で感じていることである。そして、これから先の人生でもきっとそんなどうしようもないことを感じていくのだろう。端的に、地球上で人間らしい生活を送るということは、この思い過ごしの繰り返しでしかないのかもしれないから。

ただ人間というのはホントに自分にとって都合よく考えるもので、時には雨が降ってくれたお陰で面倒なお誘いを「雨が降ったきたから」という単純明快な理由で断ることもあった。いいことなのか悪いことなのか何とも微妙な加減ではあるが、いつも雨を毛嫌いしている手前、都合よく雨を利用する自分が愚かで醜い存在に思えてくる。

本当は雨が綺麗に踊らなければいけないものなのに、いつも踊らされているのはこの僕なのかもしれない。本当は雨を上手く活用しなくてはいけない筈なのに。

他の方々が雨についてどんなことを思っているか見当もつかないが、そもそも雨には感謝しなければならないものである。雨がなければ農作物は育たないし、雨がなければ生活に必要な水を確保することが出来ない場合もある。言わずもがな、人間は水分が無ければ生存することは不可能であり、「恵みの雨」とは正にこのことで適度な雨というものは人間が生活していく上で絶対に欠かせないものである。

テレビのお天気お姉さんも「パッとしないお天気になるでしょう。」と少し濁した言い方をなされている。雨が降ることで傘の売り上げが増すコンビニ、雨宿りがてらに入店したお客さんでいっぱいになる喫茶店、普段徒歩や自転車で移動する人々が流れて乗車率が増す交通機関など、雨が降っても潤っていく業界はある。つまるところ、全員が全員雨を嫌っている訳ではないということである。当然と言えば当然のことである。

とはいえ、最近では雨が降ろうと晴天になろうとお家で過ごす事がほとんどのため、雨音の気配すら感じなくなってしまった。代わりに聞こえてくるのは「どうせ出かける用事なんてないし、雨が降ったって関係ないや」という無表情な心の声。どこか寂しくもあり、でもそんなことすらどうでもいいくらいフワフワとした時間が流れ、気がつくと9月に入ってしまった。

雨に対して嫌悪感すらも抱くことがなくなってしまうほど、今は目の前のことに集中している。自分でも分かる。それこそ、将来設計という全く当てにならない設計図ですら台風によって吹き飛ばされたかのようである。だからこそ余計に目の前のことが大切で、いつかの知り合いが以前に自己啓発的なモノに浸っていたような暇な時間は一切ない。自己啓発も所詮は他人の意見でしかないし、雨の一粒みたいにキリがないものである。

そんなことより、目の前のことに一喜一憂していいかもなと最近になって思うところである。勿論、自分の意見やベースみたいなものはこれまで通り胸に秘めておく程度のことが前提としてあるが、でも結局のところ山麓を流れる雨水のように成り行きでしかないのである。

これまでを振り返ると、ふとした瞬間に共通点のようなものに気づいてしまい、気持ちが晴れたり曇ったりとそんな程度だと思う。あるいは、何年後かにはまた考え方も変わっているだろうし、今のイマでこの先も生きていくことなんて若返りを生き甲斐としている方を除けばないのだから考えすぎも良くない。むしろ、今感じたことはもっと大切にするべきなのではと感じていくようになってきた。

以前のように雨に踊らされるわけでもなく、現在のように雨ですらどうでもいいということでもなく、雨の日でもそれなりに楽しめる何かがあり、それをこしらえたい。そこでまた何か面白いことを感じるだろうし、そんな感覚が「戻り梅雨」のように再び僕の水溜まりを満たしてくれればいいかな。

こんなくだらないことを書いている中、テレビから台風が上陸するとか何とか、部屋の静寂を彩ってくれた。

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